ダウン症で自閉症、かつ知的障害・多動性障碍児の娘と保護犬


by haafuu
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最近買った本です。しばらく、この本の内容を中心に
今、この国で何が起ろうとしているのか、起っているのか、
未来はどうなっていくのか、など僕なりに捉えていきたい。

そして読んでくださった方にとって、何某かの役に立てれば・・・
と思います。

「まえがき」から始めていきます。

●昨年8月の「政権交代」とは何だったのか。
  「政権交代」は明らかにテレビがつくり出した。

テレビの仕事に関りながら、そして長年の視聴者として、
それも、かなりのテレビっ子としてテレビがオカシイと思う。

おそらく多くの人が感じてもいることだと思う。
しかし、そう思いながらも、僕らにテレビを管理することはできない。

仕事の現場では、僕なりに「オカシイこと」をオカシイまま放っておかないように
してはいるけれど、たかが知れている。

視聴者からの電話でクレームが来たと。
しかし「それなりに対応」をするだけで、本質的なことを受け止めようと
しているようには僕には思えない。

テレビ局は、放送局に届いた「視聴者の声」を、まるでヒラリと交わす。
国母選手へのクレームは、放送局に対してのものではないから、
視聴者の立場にヒラリと立てる。

視聴者の立場、視聴者の声に乗じて、自分は安全な場所から攻撃もする。

そもそも、クレームを生甲斐としているような輩もいるのだろうが、
テレビ局にとって、いったい何件のクレームが「多数」だというのだろうか。
「クレームゼロ」を目指しているのだろうか。

クレームがテレビ局の「文民統制」には、あまり役立つとは思えないから、
大多数は「テレビやから」とわざわざ電話なんてしない・・・と僕は思う。

読売テレビの「そこまで言って委員会」には、結構なクレームが来ていると思うが、
あの番組は、うまくコントロールしているように感じる。

「クレームありき!」で、ぎりぎり・・・といっても、あくまでも放送の枠内・・・を
鬩ぎあっているように思う。

だから大阪の番組はまだマシだと、仕事もしているのでそう思う。
しかし東京は・・・というとどうも負け犬の遠吠えのように取られるかもしれんないが
・・・それでも、東京は酷いと思う。

あれは全国放送ではなくて、東京主義放送というか。
東京中心に物事を考えた放送・・・今さらの話ではないけれど。

その東京中心放送が、政治に影響を与え、「政権交代」さえ実現させるほどの、
嫌らしいやり方、演出というなの恣意的なやり方で、
この国を動かしているとするなら・・・これはやはり反旗を翻すくらいの
気合が、もはや僕らに突きつけられているのではないか、と
いささかテンションあがり気味に書いてしまったが。

報道(ショー)で言えば、大阪のテレビ局もなあ・・・。
まるで右から左に、ステレオタイプのような報道・・・では、
東京に加担しているようなものだ。

テレビ局の、免許事業が、ここへ来て弊害が・・と僕は思うが、
当事者は気付かない・・・よくある話・・・そして既得権益を守るために
彼らは頑張る・・・僕も放送局にぶら下って生活してるだけに、
まさに天に唾を吐くような話を書いて・・・いや、打ってます^^;

こら、やばいかもなあ^0^
[PR]
# by haafuu | 2010-03-01 20:04 | テレビ政治の内幕

人は「記憶」の生き物

私はとても忘れやすい。
子供の頃の記憶も、それなりには覚えているが、
友人の記憶ぶりと比べればそれは低い。
さらに「記憶の変換」もしているようだし。

事細かには覚えてがいないが、
それでもイメージとしては記憶している。
そしてそのほとんどは「それなり」に変換されて、
むちゃくちゃ楽しかったことも、それなりに楽しかったことに、
辛い記憶も、それこそ「それなりに悪くないもの」として
私の中に残ってきたようだ。

おめでたい。

自分にとって都合の悪いことは忘れるか「変換」するか、
辛かったことは忘れるか、奥のほうへしまいこむか。
腹が立ったことも直ぐに忘れられれば、
それでまた明日を元気に生きられる。

そして「いい経験」を、それもさらに「良かったのだ」と変換し、
記憶していくこと、それはたぶん「イメージ的な記憶」なのかもしれないが、
いいのだと思う。

あの時あなたはドウイッタ、コウイッタとか。
あの時あなたはドウダッタ、コウダッタとか。
それが相手を責めるための記憶ならば、
それはきっと自分を苦しめることになってしまう。

あの時あいつはコウイッタ、コウシタ、
で、大笑い!ならおもしろい。

人は記憶の生き物だと思うからこそ、
記憶との付き合い方が大切になる。
そして記憶とは、過去からの贈り物、
過去から今の自分に繋がる、今の自分を創ったもの、
だからこそ記憶の仕方、記憶の内容が大切になる。

私はとても忘れっぽい。
それが私の特性だ。
だから未来に期待する、想像し創造したいと思う。
ただ、才能はそれほどない。だが、まあ、こんなもんだ。
[PR]
# by haafuu | 2009-03-11 12:41

愛の量について

「愛している」という、ただそれだけで正義にはなりません。
「あなたより私の方が愛している」ことが、
正義であるはずもありません。

時に「愛の量」について、
「あなたより・・・」と言われたら、
まるでこちらの方が、
つまり相手にとって「愛の量が少ない方」が悪のように
責めてしまう人がいます。

責めるまではいかなくても、
言われた方は、なんとなく分が悪い。

チャゲアスの歌に「Love Song」というのがあります。
『君が思うよりも僕は君が好き』
好きなフレーズです。
しかし、ここでも「愛の量」についてせめぎあっている。

そんなアホな、と思います。

愛とは、量で計るものでまなく質を問うべきだし、
では「質」について議論すればいいのかといえば
それも野暮な話。

愛とは、最後まで信じること・・・だとするならば、
それはまさに自分を信じること、
自分が愛したということを信じきること、
それが「愛する」ということのパワーであり、
だから「愛する」のではないかと思うのであります。
[PR]
# by haafuu | 2009-02-06 12:43

「自信」について

「自信」とは自分を信じることであります。
それは、自ら信じること・ものを持っているということでもあります。

自分を信じるという「自信」は揺らぎます。
揺らぎを減らすためには精進していくしかない。
それでも、自分おやってきたことが間違いだったのか?
なんて局面に出会うこともあります。
そんな時、「自信」はいともたやすく揺らぎ、時に崩れてしまう。

積み上げてきたものがあるのなら、
揺らいだ時にどれだけ踏ん張れるかが必要です。
凌いだ後、自信は蘇る。それを、まさに信じるしかない。
それほどに「自信」とは弱いものでしょう。

若い頃は、自信過剰になりがちです。
過剰なくらいがいいとは思うけれど、「自信」に裏づけがないものだから、
過剰さに潰されてしまうこともあるから注意がいる。
若さによる過剰な自信は、肥大化した自己の表れです。
裏づけできない架空の自分を支えにしているから脆弱です。

しかし、だからこそ頭を打ったとき、
「架空の自分」に負けないように努力する、
そんなアプローチができれば
架空が現実へと向かっていく第1歩を踏み出せるものを。


私は今、自信があります。
身の丈程度の自信です。
身の丈を越えるような状況になったら、この自信はビビリます。
しかしそんな局面を見事クリアでたら、ちょっと背が伸びたような、
「自信」も成長してくれるでしょう。
それでも相変わらず「身の丈」であるのは間違いありません。

自信とはつまり経験です。
経験とは積み重ねです。
何を積み重ねていくか、それがどんな経験をするかにかかってきます。
だから私は、生きているうちに出来るだけのことは経験したいと思う。
とは言え、外国旅行が好きでもない私は、国内での経験が中心となるしかない。
環境は限定的であったとしても、
その環境の中で、出来るだけ・・・それが生きるということならば・・・
臆せず、恐れず、1歩づつ経験していきたい。
自分の世界を狭くして独りよがりすることなく。
[PR]
# by haafuu | 2009-01-15 14:33
「なめられた」とは「馬鹿にされた」であり、「見下された」であり、
「傷つけられた」であり、「悲しい」ことです。

『派遣切り』などと言われ、契約がどうの、会社の対応がどうのと
怒りに打ち震えるのは、「悲しさ」の裏返しであります。

「悲しい」を「悲しい」として受け止めています人は、
怒りよりも絶望に入ってしまうしかない。
それでは生きていけないから、人は怒るのだ。

そう、「悲しい」とは「死」を意味する感情ですらある。

人が最も恐怖を感じる場面が「死」を突きつけられた時ならば、
人は日々の中で、「怒りという悲しみ」を経験することで、
「死」を疑似体験しているのかもしれません。

だから人は怒る。
その「本能」において。

「なめんなよ」は、プライドの高さから来るだけではありません。
プライドが高い人は、心の弱さが「強い」人です。
傷つきやすい子供が増えたと言われます。
大人になれば、それは「怒りの表出しやすさ」へと変化する、
変化していかざるを得ないように思います。
「切れやすい」ということでしょう。

許容が訓練されていない、
少人数の中で育てば、「人間ていろいろおる、いろいろある」と
子供の頃に理解できない、
いろんな家族がいる、それぞれに問題もあったりする、
子供は傷つきやすい、傷もつけられる、
それでも「いろんな人間がいる」ことを知っていれば、
まだ対応はできる。

知らないから対応できない。キレる。

知っていれば、キレずにエネルギーに変えることもできる。
「なめんなよ!」と思える。
「なめんなよ!」と思ったら、あとは己が何をするかが問われる。
己自身に問われる。

「知らない」者は、相手を攻撃する。
「知っている」者は、「変換」できる。
「知っている」とは逃げ場所でもある。
逃げ場がなければ、追い詰められる、自分を追い詰める。
そしたら・・・バン!!といってしまう。

「悔しさをバネに」なんてことを教えているのやろか?
そんな思いがなければ、助けようもないだろうに。
助けてもらうことだけを期待している奴は、
期待を裏切られたからと言って、簡単に裏切るだろう。
そんな奴に僕は思うだろう。

「なめんなよ!」
[PR]
# by haafuu | 2008-12-10 15:03

背中が語るということ

人は「結果」で判断される。
何をしたか、何をしてきたか。

大きな「結果」であれ、小さな「結果」であれ、
「結果」に至るまでが現れるのが「背中」だ。

大きな結果は人々の注目を集める。
結果をバックに、説得力も大きくなる。
小さな結果には、それほどの効果は期待できない。
それでも、その背中を見れば、結果の大小ではないことが分る。

結果を出すことは大事だ。
結果の積み重ねが人生だ。
しかし、そのプロセスこそが本当の人生だ。

本当の人生を歩んできた者は、
自ら理屈をこねずとも、背中が語ってくれる。
その背中を理解してくれる者達の愛情を支えに、
人生は豊かになる。
[PR]
# by haafuu | 2008-11-07 14:44 | 最近の結論

関係

人は「関係」することで安心し、
「関係」しないことで安心しようとする。

「そんなの関係ねえ」というフレーズが流行したのは、
関ることで安心を得られる世の中ではないということだ。

確かにそうだ・・・。

初対面の人と関るときの緊張感。
あれはなんだ?

それも、関らなければならない状況であればあるほど・・・。

相手のことが少し分かったところで、
それが自分にとって「いい人」ならまだしも、
「嫌なヤツ」だったならば・・・。

「そんなの関係ねえ」とは、
世の中に「嫌なヤツ」が増えたってことか・・・。

そして「関係ねえ」をギャグにした彼は、
他の芸人と関係を構築しきれず、今も悩んでいる・・・。

「関係ねえ」ですまないからこそ「関係する」ことに緊張が生れる・・・か。
[PR]
# by haafuu | 2008-10-28 12:51
「人それぞれ」という言葉が好きではない。
違いを拒否する最終結論のようで好きではない。

人それぞれ・・・確かに、人それぞれなのだが、
そこには、「関係ない」という冷たさすら感じる。

「関係ない」と高をくくっていたら、
結構、とんでもないところに来てしまったと思うけどな。

便利だから、つい使ってしまうが、
「人それぞれ」、なんて、たしかにそうやけれども、好きではないなあ。
[PR]
# by haafuu | 2008-10-04 13:43

「やさしい」という言葉

環境にやさしいライフスタイル。
人にやさしい街づくり。
やさしい人が好き・・・等々。

現代日本人は「やさしい」が好きやなあ・・・。

それほどに「やさしくない」ということ。

でも、言葉を「やさしく」することで、本質が曖昧になって、
結局、なんやようわからんまま日々を過ごしている、
そいうことやないのかなあ。

環境にできるだけ負荷をかけない生活。
人が「快適」と感じる街づくり。
自分の我がままさえも許してくれる人が好き。

こう言い換えれば、「やさしい」より現実的になる。
そうか、日本人は、現実的なことよりファンタジーが好き・・・
なってことを誰かが言ってた。

環境って、自然環境のことかいな。
山、川、海、ってことかいな。
山に負荷をかけないとは?
山の木々が元気に育つようにするには?

川に負荷をかけないってことは?
綺麗な川が、生き物を育み、海を、山を、そしてまた川を・・・と
全ては巡る。

ならば、その循環の中に生きている人間は、
何をどうしていけばいいのか、
考え方が出来上がってゆく。
考えができて、人はやっと行動に移す。

「環境にやさしい」なんて、ええかげんな言い方、どや?と思う。
[PR]
# by haafuu | 2008-08-22 14:30
エビスビールか^^;

最近の結論・・・

生きるとは飽きないこと

世の中はニュースに溢れ、ほんま「飽きひん」と。
「飽きて」しまった時点で、生きる気力、エネルギーは
なくなってしまうのだと。

自分の人生についても、ほら、「飽きひん」かったやん?
いろんなことあったし、あるし、凹んだことも数多。
嬉しかったことも数多。そう人生は飽きないようになっている。

逃げず、受け止め過ぎず、
愛するものと抱き合い、嫌なやつとは距離をおき・・・
あ、でもね、「嫌やつやなあ」と思うのは、自分の中の嫌な部分を
相手に感じ取ったからやと思うで。
「他人は鏡」てなこと。

だから、時が経って、「あれ?ええ奴やん」となったのなら、
それは「自分が成長した」「欠点が治まった」ってことでしょう・・・

人生に、生きることに飽きないように、
人と会い、語り、喜び、嘆き、怒り、傷つき、楽しみ、笑う。
ほら、飽きひんでぇ。
[PR]
# by haafuu | 2008-07-09 12:09